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1991年、「50億円」はどこに消えたのか? ~光が丘病院問題の“原点”~

 今日22日、区議会医療高齢者等特別委員会が開催されました。光が丘病院の「保証金50億円」をめぐる判決を受けて、臨時に設定された委員会です。この場で、練馬区は控訴せず判決を受け入れ、この定例会中の補正予算に保証金50億円と延滞損害金約5億8000万円を支払うための補正予算を提出すると表明しました。
 56億円になろうという支払いは、べらぼうなものです。この巨額のお金は、日大を引き留めるために使われるわけでも、練馬の医療に還元されるわけでもなく、ただただ預かっていたはずの「保証金」を返す、しかも余分な利子までつけて返すために消えていきます。しかも、この支払いのために、区は区民の皆さんから頂いた税金をつぎ込みます。財政調整基金という、税金を積み立て、年々の財政の過不足に応じて繰り入れるための基金を取り崩すというのです。
 本来、「保証金」というのは預かったお金です。使っちゃいけません。なのに、なぜ保証金を税金で返すのでしょう? それは、練馬区がこの50億円をとっくの昔に使ってしまっているからです。
 日大が練馬区に差し入れた50億円がどのように消えていったか。2011年12月2日のこのブログで書いた記事を、抜粋して再録します。私たちは今、この当時の区の判断、措置の是非に立ち返って議論をすべきところにいます。もしあの時、「保証金」をきちんと留保していたら、少なくとも今の私たちが、自らの税金で穴埋めしなければならない事態は起きなかったからです。

 日大が、練馬区医師会に代わって光が丘病院の運営を開始したのは1991年4月のことです。1986年、光が丘病院は練馬区医師会立の総合病院としてスタートしましたが、当初から建設資金を多額の銀行借入金に依存していたことなどから経営が急速に悪化、100億円近い負債を残したまま医師会が病院運営から撤退することとなり、その後継として当時の岩波区長が誘致してきたのが日大です。
 この日大への引継ぎの過程で最大の難問となったのが医師会が負った負債の処理でした。医師会、ひいては個々の医師会員がみずから引き受けるには、負債額はあまりに膨大でした。この負債を消すために練馬区はいくつかの手を打ちます。まず、①光が丘病院の建物を区が買い取ります(土地は当初から区有地で、無償で貸与されていました)。価格は46億3500万円でした。次いで、②医師会が持っていた医師会館を買い取ります。これが、22億6955万円です。さらに、これもまたあまりに異例なことでしたが、③補助金を医師会に出します。その額22億2100万円。事実上の医師会救済資金でした。この3つのうち、医師会館は直接、区が買うのではなく、都市整備公社が先行的に買収するという形を取り、従って区の支出は先送りされたのですが、①と③、合計で約69億円は1990年度の最終補正で処理されます。そして、この69億円をねん出するための財源とされたのが、実は日大が差し入れた「保証金」だったのです。
 「保証金」と言えば、ふつうはいずれは返却されるお金、預けたお金と考えます。しかし、練馬区は少なくとも当時は、この50億円をそのまま一般財源として会計処理し、右から左へと支出してしまったのです。この経過は、議事録ではっきりと確認できます。まずは、補正予算を提案した当時の助役の本会議での発言です(1991年3月14日)。

 次に、歳出について申し上げます。
 衛生費におきまして、光が丘総合病院の存続・再生のために、病院建物購入費並びに練馬区医師会に対する交付金に要する経費を補正いたしました。
 これに見合う歳入といたしましては、日本大学からの保証金50億円および繰入金18億5600万円を充当いたしました。

 これに先立って、2月18日の本会議では当時の岩波区長がこんな答弁もしています。

 また、負債の処理の問題でございますが、まず医師会として経営責任を明確にするため、医師会館の処分等については、既に決定されておりますが、さらに区として病院財産の貸付に当たり、日大医学部から応分の負担をいただき、それを負債処理に充てる所存であります。

 保証金がなぜ「応分の負担」なのか、今となっては理解しがたい答弁ですが、しかし、はっきりしていることはこの50億円の保証金が医師会の負債を消すための決定的な財源となったということです。50億円は、練馬区の金庫に入ったわけでも、どこかの金融機関に預けられたわけでもなく、右から左へといわば“その日のうちに”支出されてしまったのです。

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