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魯迅は、泣いていないか? ~前川区長のコラムを読んで~

4月21日付の区報、ご覧になりましたか。大江戸線延伸を大きく取り上げた紙面で、このこと自体もきちんと紹介しなければならないのですが、今日は別な話。『5階の窓から』という区長のコラムのことです。

前川区長がまた、道路のことを書いています。そして、こともあろうに、都市計画道路の整備に力をこめる自分の立場を正当化するために、魯迅を引用しています。その内容が、あまりにお粗末としか言いようがない。「希望とは地上の道のようなものである」という魯迅の言葉、これは『故郷』という有名な短編小説の最後の一節の文章なのですが、この文章を引いて、こう書いているのです。

「都市計画道路についても、都の第四次事業化計画が発表されました。立ち後れた道路整備に取り組む最後のチャンスです。区民の命を守り安全で活力ある練馬を築くため、住民の皆様の御理解を頂きながら力を尽くします。希望とは地上の道のようなものである。魯迅の有名な言葉です。練馬の道を、希望を胸に歩む区民が一人でも多くなること。私の大きな夢です」

道路が希望である。都市計画道路を希望を持った区民が歩く、それが夢だ――区長がどのような夢を持とうと、それ自体は私がとやかく言うことではないかもしれません。道路事業の評価についても、意見は違いますが、区長の考えは考えとしてあるでしょう。しかし、魯迅のこの引用はひどい。

区長が引用した一文は、こんな一節の中に出てきます。

「まどろみかけたわたしの目に、海辺の広い緑の砂地が浮かんでくる。その上の紺碧の空には、金色の丸い月がかかっている。思うに希望は、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」(竹内好訳)

「歩く人が多くなれば、それが道になる」。魯迅の言う道は、みずから踏みしめ、踏み固めることによって何事かをなしていく人々の実践、生きざま、営みの象徴として扱われています。魯迅にとって、「道」は「あるものともいえぬし、ないものともいえない」もの。決して「道」それ自体に価値があるわけではなく、「道」それ自体が「希望」となるなどとは言っていない。「道」を拓き、描いていく人々の主体的な営みと意志、努力にこそ、「希望」を託そうとしている。それは、厳しい中国の現実の中で、社会と国家の変革を構想するぎりぎりの思想だったはずです。
ところがどうでしょう、前川区長は、まるで魯迅が道路そのものに希望を託しているかに言う。それも、人々の手も足も届かぬところで線が引かれ、人々の暮らしとつながりを寸断していく都市計画道路、大量の車が行きかう「交通インフラ」としての道路に希望を見出すように、区民に呼び掛けている…。「道」は「道」でも、見る目も語り口も、大違いです。

『故郷』は、中学校の国語の教科書に全文が紹介されています。こんなに短い文章の中に、ごくごく限られた人物の会話を通して、そして一見するときわめて個人的で偶然的な経験の形をとって、広大な中国社会の歴史と現実を凝縮して描いてみせた魯迅の力を、つくづくと感じさせられる作品です。
「希望とは道のようなもの」――それは、この小説の核心です。そこに込められた魯迅の思いの中に、斃死寸前と見える中国の現実への慨嘆を読むか、革命に向けた意志を知るか、そこはいろいろな解釈や読み方があるかもしれませんが、ただ一つ確実なことは、この小説が中国の民衆、庶民への深い愛情、共感に貫かれているということです。
前川区長の「夢」のむしろ対極に、魯迅の思想はあります。半世紀も前の都市計画を大上段に振りかざし、大型道路をこれでもかと持ち上げ、どんな反対があっても、それが人々のつながりや暮らしをどれほど傷つけたとしても、必ず道路を造ると意気がって見せるようなことを、魯迅はするでしょうか? 少なくとも、魯迅の言葉を引いて、みずからの道路志向を正当化することだけはやめてもらいたい。
人が道を作る。天でも神でも権力者でもなく、人が道を作る。そこにこめられた革命的で民主的な精神をこんなに無残に扱われて、魯迅はきっと泣いています。

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