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池尻成二事務所 〒178-0063 練馬区東大泉5-6-9 03-5933-0108 ikesan.office@gmail.com

生活の隣に自然を… ~池尻成二の「原風景」~

 区長選に立候補する意思を明らかにして以来、私の個人史についてずいぶんと聞かれるようになりました。大学医学部中退から始まってそうそうないような“足跡”です。興味をもたれるのも無理からぬことですが、本人としてはあまりしゃべりたくないし、何より説明したくない。説明はいつも後付け。その場その場で選び取った人生、あとから説明できるほど筋書きがあるわけではないのですから。
 それでも、自分の子ども時代については、なぜか無性に語ってみたいという衝動に駆られます。実はもう10年以上前、2001年に「いぶき」7号で「生活の隣に自然を取り戻したい」と題して、こんな記事を書いていました。今も手を入れる必要がないくらい、よくまとまっています。再掲して、自己紹介に代えてみたいと思います。

 最近、自分の記憶の中に原風景のように残っている「自然」について考える。
 住んでいた福岡市内の公団アパートは、博多湾のすぐ近くにあった。5階建ての最上階から階段を駆け下りて、団地の中を走り抜け、貨物列車の引込み線をまたいでいけば、もうそこは海岸だった。海岸だったけれど、砂浜ではない。よく覚えている。岩、それも海草がこびりついたような岩でできた小さな岸壁があり、いつもその上に座って海を見ていた。
 海を見ていたといっても、それは、小さな子どものこと。遠い水平線をながめるような余裕はなく、ひたすら下を、岸壁から続く磯の風景を食い入るように見つめていた。いるいる、今日もいる。ハゼがうようよ、それにサヨリも。抱えてきた小さな竿に、取ってあったゴカイを付けて糸をたらす。そうやって、何日過ごしたことか。ハゼは、今も昔も貪欲でよく食らいつくが、サヨリはけっこう難しかったかな。すらっとした体と、とんがった口が何とも魅力的で、サヨリの群れを見つけるとわくわくしたのを覚えている。
 潮が引くと、岸壁の切れ目から海岸に降りる。ノリやテングサの合間を歩き回り、転がっている岩をひっくり返してはゴカイを探す。フナ虫もうようよいるが、こちらはなかなかエサにはならない。そういえば、ときどきは沖のほうまで歩いていって、アサリ掘りもした。博多湾は、遠浅だ。干潮時には、ずっとずっと、歩いていけた――もっとも、子どもの足でだから、実際のところはわからないが。
 山にもよく行った。これも、名のある山、高い山ではまったくない。父の実家があった、久留米市の小さな山だ。いや、山というよりもちょっとした、そう、今よく語られる「里山」のようなところだ。年に何回か帰省するたびに、山に入る。どこをどう行ったか、今ではさっぱり記憶はあいまいだが、行くたびにお墓の角のクヌギの木でカブトやクワガタを捕まえたのを鮮明に思い出す。
 あたりまえだった。生活の中に、自然が隣り合って暮らしていた。大げさなことではない。何か特別に珍しい、特別に貴重な自然などではない。しかし、というよりもだからこそ、その自然は、私の生活の一部として、きっと私を育ててくれたのだと思う。自然は、今思えば豊かだった。繰り返して言うが、たいした自然ではない。それでも、子ども心にその豊かさを感じていた。「学ぶ」「感じる」ことの楽しさを教えてくれる豊かさだ。自分の知らない世界、自分の知性や感性を刺激してくれる新しい発見を、自然はいつも、提供してくれる。飽きることはなかった。飽きることのないほど、広がりも奥行きもあるのが、自然なのだ。
 私は、1955年に生まれた。ちょうど、「高度成長」期に差しかかるころ、自然も社会も、人も意識も、大きく変わり変えられて行くとば口のところで、私は子ども時代を過ごした。今思えば、小学校のころ、ちょうど日本は激しく変わりつつあった。そして、いまや大きく変わってしまった。
 東京に出てきて20年。年に1回は、福岡に帰る。生まれ育った団地は高層に建て替わり、あの海ははるか遠くまで埋め立てられている。博多湾全体が、ずいぶんと埋め立てられた。あのダイエーホークスの本拠地、福岡ドームも埋立地の上にある。久留米に行くのは、本当に便利になった。以前は3時間もかかったような気がする久留米のいなかまでの道のりも、高速道路のおかげで1時間ちょっとですむ。いや、実は、いなかの実家がなくなった。便利にはなったけれど、久留米まで足を伸ばすことはもうほとんどない。
 この半世紀近い時間の経過と日本の社会の変容のなかで、私が個人的に得たものは大きかったが、しかし、失ったものも大きかったのだろう。考えてみれば、私が「政治」に志す気持ちを持つようになったひとつのきっかけも、たとえば水俣であり、大分の海に広がる「新産業都市」の公害だった。自然、そして自然と隣り合って暮らす人たちの痛みを、自分なりにどこかで共感できたのだと思う。
 失ったものをもう一度、取り戻したい。同じものを、同じ形でとは言わない。この東京で、今の時代なりのやり方で、この生活の隣に自然を取り戻したい。
 なぜ、そう思うのだろう。
 自然が人を育んだのであって、人が自然を作ったのではない。人は、社会を作り、知性を広げ、自然を作り変えてきたが、しかし自然そのものを作り出すことなどできはしない。自然の豊かさと複雑さ、奥行きと広がりの前に、人間はかなわない――そんな謙虚さが、実は、今の私たちにはとても必要なのではないか。わからないこと、知らないことに出会い、自分の無知を思い知らされたとき、本当に人は学びたくなるのだと思う。
 そして、いつも隣にある自然が人の手、企業の手で傷つけられ、ゆがめられるとき、その痛みはどこかで私たちのからだや心の中に響いてくる。自然の痛みを感じる心は、人の痛みをよく知るに違いない。私たちだって、自然の一部なのだから。自然との交流を見失った私たちは、いつのまにか隣にいる<人>を豊かな自然としていとおしむことも忘れてしまった。生活の隣に自然を取り戻すことは、自分の隣に<人>を取り戻すことにつながるように思えてならない。

 レイチェル・カーソンという、アメリカの女性化学者が、『センス・オブ・ワンダー』という本を残してくれた。この春、映画化され、練馬でも上映運動が進められている。その『センス・オブ・ワンダー』に、こんな一節がある。
 「子どもたちがであう事実のひとつひとつが、やがて知識や知恵を生みだす種子だとしたら、さまざまな情緒やゆたかな感受性は、この種子をはぐくむ肥沃な土壌です。幼い子ども時代は、この土壌を耕すときです。
 美しいものを美しいと感じる感覚、新しいものや未知のものにふれたときの感激、思い
やり、憐れみ、賛嘆や愛情などのさまざまな形の感情がひとたびよびさまされると、次はその対象となるものについてもっとよく知りたいと思うようになります。そのようにして見つけだした知識は、しっかりと身につきます。」
 私たちは、自然との出会いとともに、カーソンの言う「肥沃な土壌」=“センス・オブ・ワンダー(不思議なもの、未知のものに目を見張る感性)”をにぶらせ、忘れてしまいつつある。そして、そのことが、人間社会をその底のほうですさんだものにしているのではないか。
 遠い自然は、どんなに雄大でどんなに稀有なものであっても、それを生き生きと感じ取るには大変な想像力を必要とする。身近に、生活の隣に、自然を――そして自然を感じ取る感性と知性を取り戻したい。それは、子どもたちの心に“闇”を見つけてたじろぐおとなたちの薄っぺらな教育論議よりも、はるかに有意義となるに違いない。

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