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市民活動、社会運動の中で

公害、医療被害のフィールドで

大学に入った時、向学心はたいへんなものでした。学部は理系でしたが、哲学やら経済学やら、たくさん講義を取り、“人生観”やら“世界観”やらを手にしようとしたものです。しかし、机に向かっている限り、得られるものはわずかでした。そして、机を離れ、学外に出て、現場(フィールド)に入ったとき、私の生き方ははげしく揺さぶられ、社会を見る目は大きく変わりました。

水俣、宮崎・土呂久、三池鉱山の炭じん爆発…九州各地に広がる“公害”のつめ痕。スモン、筋短縮症などの薬害・医療被害、そして精神医療の荒廃が教える医療のゆがみ・・。

現場に出て、傷ついた人々と向き合い、社会の矛盾を痛切に思い知らされ、その理由を知ろうという思い、ゆがみを正したいという思いは募っていきました。九州は、いや九州のフィールドは、政治家としての私を生み育ててくれた“揺りかご”です。

練馬に移り住んで

1981年に上京し、練馬に住むことになったのは、偶然でした。当時は仕事で池袋に行くことが多かったこともあり、西武池袋線で急行に乗って家探し。最初に停まった駅・石神井公園の名前に魅かれて、降りてみることにしました。降りてみて、広がる畑と広い空は、まさか東京でというくらい新鮮でした。

しかし、練馬で出会った多彩で奥行きのある市民活動は、さらに新鮮でした。

何より、障害者や子育てのフィールドで地道に、果敢に続く地域の活動はたくさんのことを教えてくれました。病院に閉じ込められてきた「精神障害者」を地域で受け入れ、受け止めていく努力。サービスとしての保育を超えて続く「共同保育」の試み。地域のただ中で命を守る医療生協。重い障害があっても地域で生きるという、当事者と市民のたたかい・・。

40歳を過ぎて、日野での入所施設を出て練馬でのひとり暮らしを始めた横川恒夫さんと。横川さんの自立を支えようと、少しだけですがボランティアに入っていたころの写真です。

練馬には自衛隊の駐屯地が二つあります。ちょうどPKOなど、自衛隊が海外に出ていくことについて大きな議論が巻き起こっていた時期です。平和や憲法を守る、というのではなく、むしろ平和の世界と暮らしを作り出していくことこそが必要だ。そんな視点を強く意識した市民活動の経験も、地域と世界の関わりを強く、深く、考えさせられるものでした。

ともに生きる ともにつくる

どれもが、既成の福祉や「革新」政治の枠を大きく超えていきました。抽象的にイメージされていた社会像が、具体的な姿となって目の前に現れた—―そんな感慨にすらとらわれたものです。

私の政治活動、そして私とともに生まれ育った市民の声ねりまの“キャッチ・フレーズ”は、「ともに生きる ともにつくる」と決まりました。

たくさんの市民活動に触れ、たくさんの個性的で魅力的な人たちに出会い、私は「地域」にこだわることの大切さと可能性を教えられました。そして、政治を地域から立て直していくことが自分の目標になります。1991年の選挙への挑戦は、そこから始まりました。

医療団体のスタッフとして

地域の市民活動の中で、たくさんの素敵な仲間と出会い、社会を変える営みがどういうものであるかを知り、頭で考えていた「政治」は地に足の着いた実践とつながりました。

他方、東京に来てしばらくして、大学時代の先輩たちが作っていた医療団体の調査スタッフとして仕事をすることになりました。テーマは社会保障制度、とりわけ介護保険制度の分析。制度発足に向けて国が動き出す中で、介護を必要とする当事者・家族、そして支えようとする事業者や専門家を巻き込んで、大きな議論が広がっていました。

そんな中、「もしあなたが介護が必要になったら?」「自分で自分の暮らしをプランしてみませんか?」――そんな投げかけから始まる講演会を、全国で開催させてもらい、記録を取りまとめた本も出版されました。少し先になりますが、介護保険制度の最初の大改定、いや改悪が進められようとしていた2005年には、国会の厚生労働委員会で参考人として意見陳述する機会も頂きました。

池尻成二、国会での発言
2005年、介護保険制度改悪の転換点となった法改正に反対し、衆議院厚生労働委員会で参考人として意見を述べる

中村哲医師との出会い

練馬のまちとそこで営まれていた市民活動は、国政と区政が深くつながっていること、地域から、区政から国政を変えていくという確信を与えてくれました。この間、私が強くこだわりを持って続けてきた活動のひとつが、中村哲医師の支援です。2001年、米国などがアフガン空爆に踏み切る中で、中村哲さんの講演会を企画し、そしてステージまであふれた人々とともに聞いた話はまさに衝撃でした。

遠くアフガンの地で、干ばつと戦火の続く30年以上の長きにわたって、ただひたむきに、謙虚に、しかし頑固に人々のいのちと向き合い続けてきた中村さんの実践は、私にとって、戦争の絶えない世界、格差と差別を広げつつある世界への痛切で根源的な対案と思えてなりません。

中村さんを、ぜひ練馬へ。以来、練馬での講演会は6回を数えます。そして、7回目を開催することを約束したその直後、2019年12月、中村さんは何者かの銃撃で命を奪われます。つい1週間ほど前に福岡で固い握手を交わしたその人が、今はいない。受け入れがたく、また容易には耐え難い衝撃でした。

2020年2月1日、練馬で『中村哲先生をしのぶ会』を開催しました。「中村哲は、死してなお、私たちとともにある」。そのことを固く感じて、”哲さん”の思いを少しでも受け継いでいけるように努力を重ねたいと思います。

中村哲医師と練馬区議会議員池尻成二
練馬での講演会で

2003年、4度目の挑戦でついに議会へ

2003年、地域のたくさんの仲間に支えられて、初当選。一つ一つは小さいかもしれないたくさんの声と思いをつないで、形にし、力に変えていく。その夢は、一つの議席として、しっかりと実を結びました。

一人一人の思いをつなぎ直して政治を立て直す。地域から、政治を変える。社会を作り変えていく市民の営みと、いつもしっかりとつながっていく。私と、そして市民の声ねりまの活動の原点が、こうして生まれました。九州が、政治家としての私の“揺りかご”だとしたら、練馬は、私を育ててくれた“学び舎”です。議員になった今も、たくさんのことを私に教え続けてくれています。